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自閉症のある息子は「死」をどうとらえている?

知的障害を伴う自閉症のある息子の関心事のひとつに「死」があります。小学生の頃から死に関するニュースにはすかさず反応し、芸能人など誰かが亡くなった知らせを耳にすると、キラッと目を光らせます。「ゆみさん、大変です! ◯◯さんが亡くなりました!」と、⁡不謹慎で申し訳ないのですが、何か喜びを押し殺す感じでそう報告してくれます。

⁡⁡若い子が面倒に感じることも多いお葬式や法事にも、意気揚々とした感じで出席。まるでイベント感覚です。そして、親戚や有名人、歴史上の人物などあらゆる人の命日を記憶しています。誕生日や結婚などと同列の記念日であるかのように。

今回は息子が「死」に対して持っている独特のとらえ方について書いてみたいと思います。

幼少期に見た葬儀はエンタメ

家族や親戚に不幸が起きると、私たち大人は大きく反応します。私の祖母が亡くなったとき、普段と違う周囲の動きや会話から、幼児の頃の息子にも「特別なことが起きた」と分かったようです。

2歳だった息子目線で見る葬儀は(この時の記憶はあるそう)、たくさんの人が黒い服で集まり、キラキラした服のお坊さんという人がポクポク音のするものを叩いている。箱で眠っていたはずの「大きいばあちゃん」が骨になって箱から出てくる。最後には花やお菓子でいっぱいの場所(=仏壇)で、額縁に入って笑っている。……と、まるで手品のような、魔法のような不思議な出来事です。

当時の息子はこの非日常の光景にエンタメ性を感じたり(不謹慎であること重ねてお詫びします >_<)、幼いながら厳かな雰囲気や生命の神秘に魅了されたりして、人の死に関心を持つようになった、というのが私の推測です。

学校の先生から心配される

親戚の葬儀に何度か出席する経験をしたあと、小学生の息子の描く絵に骸骨やミイラのような死体、仏壇や位牌、額縁に入った遺影などが登場するようになりました。火葬のあとの、骨壺に収める直前の遺骨の様子などもリアルに描きます。描いているときの姿は、好きなキャラクターや道路の絵を描くのと変わらず楽しそうです。

ある日、これに気づいた学校の先生がお電話をくださいました。このまま死への関心が高まっていったときに、将来何か、猟奇的な事件を起こしてしまうのでは……といった心配をされたようです。

確かに、世の中にはそのような人もいるでしょうし、残酷な事件が起きたこともあるでしょう。もちろん、この先どう変化するか分らないので用心に越したことはないですが、息子の場合は今のところ興味の種類が違うかな、と私は感じていました。

息子には、例えば虫を捕まえて殺したり、動物を痛めつけたり、人が苦しんでいる様子に快楽を覚えたりする性質は、私から見て一切ありません。人の痛みが分かる感性がちゃんとあるし、関心があるのは「亡くなってしまった後」のことです。

なので先生の言葉は胸に留めつつ、好きな絵を描かせ続けることにしました。その後、この手の絵を描くブームは1、2年でなくなっていきました。

大好きなおじいちゃんが死んだ時

死後の儀式をエンタメやイベントと感じているとしても、実際に大事な人が亡くなれば、やはりショックを受けてそれどころではなくなるのでは……と思いますよね。息子が大好きだったおじいちゃんが亡くなった時はどうだったのかというと……。

同居していた私の父、つまり息子のおじいちゃんが亡くなったのは、息子が中学一年のときでした。おじいちゃんがドライブに行く時はいつも、助手席が息子の指定席。8歳のときに起きた東日本大震災のあとは、怖くて何年もおじいちゃんの布団で一緒に寝ていた息子でした。そんな、とてもとても可愛がってもらったおじいちゃんが亡くなったとき、⁡息子はどんな反応をしたと思いますか。

⁡⁡実は驚くほどケロッとしていたのです。⁡

息を引き取ったあとすぐ駆けつけた病院で、みるみる白く冷たく硬くなっていくおじいちゃんを見て、⁡取り乱したりするのではと心配しましたが、⁡驚き、悲しみ、ショック、動揺、胸の痛み、などの感情で表情が曇ることは、全くありませんでした。⁡ま・さ・に!平常心だったのです。葬儀から納骨までの全ての流れにも、楽しげに参加しました。

息子にとって他人の存在とは

そもそも、息子の「他人の存在」のとらえ方には独特なものがあります。⁡⁡実物がここにいるかどうかはあまり問題ではないようなのです。⁡無関心とはちょっと違います。⁡⁡誰かを思うとき、会えているかどうかは関係ない。⁡彼が思い出せばその人はそこにいるのです。

⁡例えば数少ない大好きなお友達は、住所も電話番号も知らず会う予定も一切ないけれど⁡⁡、明日にでも会えるかのように近く感じているようです。⁡⁡実際にスーパーや病院でバッタリ会ったりもしますが、⁡昨日まで会っていたのと変わらない感覚で「よっ!」とあいさつ。偶然を驚く様子がありません。

離れているお友達も、死んでしまったおじいちゃんも、息子の中では会話の相手(たいしたキャッチボールではないにしても)。妄想の中で楽しいやりとりをして、声をあげて笑っています。たとえ死んでしまっても、二度と会えなくても、息子にとって決定的な終わりではないのです。

死は別れではない

果たして私がこの世を去ったときにも、息子は私の骨を拾うことを面白がってくれるでしょうか。

大切なおじいちゃんを失っても平常心だったのは、母である私がそばにいる安心感があったからで、親なしに生きていくことの現実を理解しはじめれば、また反応は違うかもしれませんね。

でももし、私の死を息子が全く悲しまないとしても、⁡それが別れでないと息子が認識しているのなら、⁡さみしさはあるけれどそれ以上に、なんだかステキなことのようにも感じています。

執筆者プロフィール

細川 有美子(ほそかわ ゆみこ)

1968年生まれ、福島県在住。
バックパッカーとして海外旅行中に出会ったエジプト人と2000年に結婚。現地で子供2人を出産する。2003年子供と帰国したのち、息子の発達障害が判明。夫とは2005年に離婚。
これまでに自閉症(中等度発達遅滞)・ADHD・精神障害・難病(クローン病)の診断を受けた息子の子育てと現在を、Instagramで発信。
2014年より取材・執筆活動を開始し、現在は事業所でのパート勤務、再婚の夫とふたりで米づくりにも奮闘している。
◇たきちゃん農場 https://www.takirice.com/
◇Instagram https://www.instagram.com/yumiko_days

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